monaho

monahoって、エスペラントで、僧侶の意味なんですって。

蒼紫を哲学する

 こないだ伝説の最後編を見ていて、ちょっと思ったこと。

 なんということはない、ただ慶が蒼紫について語るだけです。

 私の中ではNEW解釈だったのです。

 ※あくまで個人の解釈です

 

  ちゃんとした文章にしようと思ったのですが、考えながら書いたメモがそのものずばりな感じなので、そのまんま書きますね。

 

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 蒼紫は、

 もう自分のことなんかどうでもいいやというところまで傷ついて、

 自分のせいだ、自分のせいだ、自分のせいだ、

 もう何もかも自分のせいなんだと思い詰めて、やけくそで、

 でも自分のせいで、どうしようもなくて、

 誰かにわかってほしいけど、弱音を吐く相手なんかいなくて、

 自分の居場所をすっかりなくして、

 本当はあったけど、操のそばとか、葵屋はあったけど、

 やけくそだから、そんなやさしい場所なんかいらないと思って、

 自分を責めて責めて責めて、誰かにぶつけたくて仕方なくて、

 ちょうどそこに抜刀斎の名前があって、

 そうか、こいつのせいで、

 と、責任転嫁というか、八つ当たりというか、を覚えて、

 抜刀斎のせい、俺のせい、抜刀斎しね、

 ついでに俺も死んでしまえ、もうそれでいいや、

 となって、探しに探して、それで毎日自分を生かして、

 そうすることで考えなくて済んで、そうしないとおかしくなりそうだから、

 ずっと抜刀斎のこと探して、

 自分を敢えて厳しいところにおいて、ああ、自分はこういうことだよな、

 と思って、ずっと(自分に)思わせて、

 くっそ抜刀斎、というのを募らせて、それでぎりぎりを保って、

 やっと(抜刀斎に)会えたと思ったら、

 考えたら狂いそうだったことを突かれて、

 しかもそのせいで勝てないと言われて、

 じゃあどうすりゃいいんだ…となって、

 くそ、負けた、どうすりゃいいんだ…のまんま、

 操に引き渡されて、

 操がやさしくしてくれて、

 なきそうだけど、甘えちゃいかん、甘えるわけにはいかん、

 だってもう自分はどうなったっていんだから、

 どうせ操も、冷たくし続けたら嫌になるだろ、放っといてくれ、

 と思っていて、

 

 でも本当は、

 そうやって冷たくしても、ずっとずっと、優しくしてほしくて、

 だから、操が、ずっとほしかったやさしさをくれて、

 うれしくて、

 でも素直にはとびつけないから、

 本当にいいのかどうか、を何回も確認して、

 何回聞いてもやさしく「いいんだよ」って言ってほしくて、

 操は言ってくれて、

 それがうれしくて、泣きそうで、

 生きていくんだと思います。

 

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 超ふわふわ~~。

 原作というよりは、実写映画の解釈でしょうか。

 でもちょっと原作にも通ずるところがあるかなあなんて。

 

 実は私、今まで、「蒼紫が(本当は)弱い」ということの本当の意味?みたいなものがあまり分かっていなくて、確かに強い人ではないな~とは思うけども、「蒼紫が弱いってどういうことだろう? 精神的に弱いってなんだろう?」と考えていたのですが、

 このメモ書いていてちょっと分かった気がします。

 

 これは精神的な弱さじゃなくて女々しさでしょうか。

 女々しいのはちょっとアレですよね。

 

 なんていったらいいのかなあ。ひねくれてるようにも思えるし。

 

 ひとつ確実に思うのは、こういう個人の推測を全部ほっぽって原作で表現されたことだけを見たときに、主人公をぼろぼろに斬るわ味方は裏切るわ志々雄退治の邪魔にもなるわで全然いいところない男が、なぜ操みたいな天真爛漫で純粋な女の子に無条件で愛されるのだ!??!?!?! ということです。オカシイ。

 

 あとこのメモのすみっこにある「いちばん許してほしい人=操?」っていう書き込みが気になります。このときの私は何を考えてこれだけ書いたんだ。